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第94話 過去の痛み、東屋で交わす謝罪の言葉

last update Last Updated: 2026-02-13 09:30:00

突然声をかけられて、イルゼは慌てて顔を上げようとしたが、すぐに躊躇った。

予想だにしない人物からの声だからだ。

忘れもしない。この癪に障る甘ったるい喋り口調は義姉リンダのものに違いない。

恐らく自分だと認識していないだろう。

しかし──「ちょっと、ねぇ大丈夫……誰か呼んだ方が良いかしら?」と肩を揺すられてしまい、観念してイルゼが顔を上げると、お仕着せのドレスを纏ったリンダが目を丸く開いて口を開けて突っ立っていた。

扇情的で毒々しい印象しかなかった義姉だが、どうにも化粧も薄くなったせいか、幾分か幼く見える。それに、お仕着せが妙に似合っている。

「大丈夫ありがとう。どこも悪くない」

とりあえず短く答えると、彼女は非常に気まずそうに俯いた。

「ねぇ……貴女、今ちょっと良いかしら?」

都合は悪くないか、具合が悪くないか。と、今一度、真面目な口調で聞かれて、妙に緊張が走った。

あの事件
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     またリンダだろうか……。否、今度はメラニーか。それか、迷い込んだ街の人か。  イルゼが顔をやれやれと上げると、そこにはルードヴィヒの姿があった。「イルゼ、ここにいたの?」  ──人疲れ? なんて戯けて言われるので、戸惑いつつ頷くと、「だろうと思った」と悪戯気に笑んで彼は近づいてきた。「あれ。ルイは仕事じゃないの?」 「少し気晴らし。別に急ぎでもないしさ。イルゼが庭園に行ったってメラニーが言ってたら来たけど……人多すぎて俺も疲れたわ」 だって、みんな話しかけてくるし……。  唇を尖らせて言うものだから、そんな仕草が少しばかり可愛く思えて、イルゼはクスクスと笑んでしまった。「領主様がそれじゃ困るでしょ? これから、もっと人が多い場所に顔を出すのでしょうし」  そうして、二人は他愛のない会話を交わし、互いに微笑んだ。  それから暫く──ルードヴィヒはどこか緊張した面持ちでイルゼを見た。「イルゼ、ちょっと真面目な話がしたいんだけどさ。少し立てる?」 いつになく真剣な口調に、イルゼの胸が小さく跳ねた。  どうしたのだろうか──戸惑いつつ立ち上がると、彼は優しくイルゼの手を取り、その場でゆっくりと片膝をついた。白銀の瞳が、まっすぐに自分を見つめている。  薔薇の香りが風に乗って漂い、二人の間を優しく包む。「イルゼ……俺の生涯を、君に捧げたい。君を幸せにすることを、心の底から誓う。どんな闇からも、どんな痛みからも、精一杯守る。俺は未熟な領主かもしれないけど、この地をしっかり治めて、君と温かい家庭を築きたい。君の笑顔を、毎日見ていたい。だから、どうか……」 ──俺と、結婚してくれ。その言葉に、イルゼは息を飲んだ。  まさか、今この瞬間に言われるとは思わなかった。  いつかそのつもりだと言っていたのに、心のどこかでまだ遠い未来のように感じていた。 頰が熱くなり、視界が潤む。  ぽかんと口を開けたまま、言葉が出てこない。彼は少し不安げに、でも優しく目を細めて微笑んだ。「イルゼの返事、聞きたいな」

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    突然声をかけられて、イルゼは慌てて顔を上げようとしたが、すぐに躊躇った。 予想だにしない人物からの声だからだ。 忘れもしない。この癪に障る甘ったるい喋り口調は義姉リンダのものに違いない。 恐らく自分だと認識していないだろう。 しかし──「ちょっと、ねぇ大丈夫……誰か呼んだ方が良いかしら?」と肩を揺すられてしまい、観念してイルゼが顔を上げると、お仕着せのドレスを纏ったリンダが目を丸く開いて口を開けて突っ立っていた。 扇情的で毒々しい印象しかなかった義姉だが、どうにも化粧も薄くなったせいか、幾分か幼く見える。それに、お仕着せが妙に似合っている。「大丈夫ありがとう。どこも悪くない」 とりあえず短く答えると、彼女は非常に気まずそうに俯いた。「ねぇ……貴女、今ちょっと良いかしら?」 都合は悪くないか、具合が悪くないか。と、今一度、真面目な口調で聞かれて、妙に緊張が走った。 あの事件の後、手紙を寄越されたが、イルゼは返事を書いていなかった。 それどころか、使用人たちの計らいで鉢合わせを避けるため、リンダとは会わぬようになっていた。「……大丈夫」 緊張しつつ答えれば、彼女は小さく頷いた。「……その。兄の指示とはいえ、髪の毛を切り落としたこと。あれだけはずっと謝りたかったわ。肉切り包丁を振り回したっておかしくないとは思う」 そう言うなり、リンダは頭を下げる。 「私は、母親を貴女の父親に殺された行き場の無い怒りを、あなたにぶつけ、腹いせに利用し続けたわ。貴女と父親は違うって分かっていたのに……本当に、ごめんなさい」 その謝罪に、イルゼは困却した。 手紙でも聞いていたが、あまりにも今更な言葉だ。 それに髪を切られた件においても、一年が経過したので、すっかり後ろ髪も肩を越すほどに伸びている。だからもう、これ以上語る言葉なんて無いというのに。「髪は…

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     ……そう、ツヴァルクの領主は変わったのだ。 前領主、ミヒャエル・ツヴァルクが死去したことにより、彼の異母兄弟であるルードヴィヒ・ツヴァルクが領主となったのである。 あの後、彼は身代わりであったことを王宮に明かした。 下手をすれば詐欺罪や不敬罪などに問われる恐れもあったが、彼は瞳の色も変えずありのままの自分で侍従たちを連れ、王宮に向かい、国王にこれまでをすべて話した。 だが存外、国王は寛容だったらしい。 そのもっともな理由は、彼の父に当たる前領主よりも、彼の方が領地を上手に切り盛りしていることや、領地の財政が安定していて素晴らしいとの評判が高かったからだ。 そうして、彼は正式に爵位を継ぐ形となった。 それから領地に戻って数日後── ルードヴィヒは初めて領民たちの前に立ち、ミヒャエルの死を伝え、今まで彼の名を借りて領地を治めていたことを発表した。 王宮では承認されても、領民には反発されることも覚悟していたそうだが……気にしていないのは領民も同様で、反発する者は誰一人としていなかった。 また白銀の瞳も、誰も触れることもなかった。 そう、案の定──野蛮で残忍な騎馬民族シュロイエというのは遠い過去の話。覚えているものなどそう残っていなかったのだ。 むしろ、彼は領民から感謝されていた。 奇人変人の猟奇領主と散々に噂になっていたものの──所得の多い者に税を増やし、少ない者には軽くする。そして、領地整備などの意見もすぐに取り入れるなど、彼のやり方や税金の使い道を誰もが納得していたのだ。 むしろ皆、群衆の前で姿なんて出しもしない領主がようやく顔を出しただけでも嬉しいと活気づいていた。「猟奇領主だなんて、あんな噂は嘘だったじゃないか。有能な領主様だ」「なんであんな噂が広がったのやら。確かに俗っぽさや癖があるが、賢い青年だったよ」 そんな評価ばかり広がったのである。そもそも、病弱と言われたミヒャエル様がこうまでして領地を取り仕切ることは難しいと考えていたそうで、「本物か」と噂になっていたら

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     ──それから、一年の月日が巡った。しかし、この一年の間で本当に様々なことが起きたものだと、薔薇園の迷宮の果てにある東屋で休憩するイルゼは頬杖をついて反芻する。  陽光が柔らかく差し込み、薔薇の甘い香りが風に乗って漂う。外は随分と賑やかだった。老若男女の話し声が多数響き、子どもたちの笑い声や驚きの歓声が混じり、それだけでなく鶏の元気な鳴き声までするのだ。庭園が一般開放された今日、訪れた人々が花々を眺めたり、鶏に餌をやったりと、活気に満ちている。 イルゼはこの一年、変わらず城に留まり続け、ルードヴィヒの隣部屋で暮らしていた。 穏やかな朝の光が差し込む部屋で、彼の寝顔を覗き見るのが日課になったり、夜には一緒に夕食を囲むのが当たり前になったり──そんな小さな幸せが積み重なった一年だった。あの事件の後、イルゼは使用人たちの協力のもと、すぐに養鶏業を畳んだ。 日常が切り離されたことはどこか寂しかったが、皆が優しく手伝ってくれた。 当然、家に戻って暮らすことも考えたが、「こんな寂れた場所で女の子が一人暮らしなんて危ないし、ここに住んでていいから」とルードヴィヒに言われてしまったのである。 彼の声はいつものように気怠げだったが、瞳の奥に本気の心配が宿っていた。それに逆らえず、イルゼは頷いてしまった。 とはいえ、何もせずにただで住むのは申し訳ない。 手持ち無沙汰に、メラニーに「仕事がしたい」と頼んだが、彼女は首を横に振るばかり。「イルゼは他にやることがこれからあるわ」と、優しく諭されるだけだった。 そして……数日後にイルゼのために呼ばれたのは、精神科医ではなく、今度は淑女教育の講師だった。 お茶のマナーに刺繍、歌の稽古、ダンスの稽古など。優雅なティーカップの持ち方、針を運ぶ繊細な手つき、伸びやかな歌声、優美なステップ──まるで貴族の娘のような教育に、ますます意味が分からない。 困惑したイルゼは、自室で仕事をするルードヴィヒに問い詰めたのである。

  • 罪の鎖に繋がれた没落令嬢は猟奇領主の執愛に溺れる~ローレライの夜想曲~   第91話 歌に繋がれた私たちの運命の輪

     イルゼは静かに、母との、彼との思い出の夜想曲を歌い始める。 そうして一節を歌い上げようとするときだった。 叩扉が響き、イルゼは歌を止めて返事をすれば、間もなくドアが開く。そこにいたのはバルバラだった。彼女は杖をつき、ゆったりと近づいてくるので、イルゼは慌てて椅子を用意する。 だが、バルバラはすぐに首を振り「気遣わず大丈夫ですよ」とイルゼに優しい微笑みを浮かべて言う。「でも……」「一日に一度は旦那様のお顔を見たくてですね。空いた時間にこうして訪れているのですよ」 ――本当に今にも起きそうで、綺麗な顔で眠っていらっしゃる。 そう呟く、バルバラは穏やかな瞳でルードヴィヒを見つめていた。それはまるで母が子を思うような。そこには確かな愛情が込められていた。 そう感じてしまうのは、憂いの色が強いからだろう。 彼女はルードヴィヒに近づくと、幼子にそうするように、彼の頬を優しく撫でる。 しかし、彼の手に握らせたペンダントに気づいたのだろう。「これは……」 彼女は一瞬だけ目を丸くして、イルゼの方を向く。「そういえば、イルゼさん。随分とお懐かしゅう歌を歌っていましたね」 聞かれていたのか。バルバラに微笑まれて、イルゼはほんのりと赤くなる。「その……この歌、母に教わったのです。彼も気に入ってくれていたみたいで、私にこの歌をよくリクエストしてくれたのです。私は川底にいた母に救われました。馬鹿げてるかもしれませんが、母が力を貸してくれないかなって……」 そう伝えると、バルバラは慈愛の込もった優しい瞳をイルゼに向け深く頷いた。 そして──彼女は薄い唇を開き、静かに伸びやかに、夜想曲を歌い始める。 だが、イルゼはバルバラの歌の上手さに驚いてしまった。 それはまるで歌うことに慣れているかのよう。声がよく通っているのだ。「彼女は喋らない」そんな風に言われていた気難しそうな寡黙さが嘘のよう。透き通った

  • 罪の鎖に繋がれた没落令嬢は猟奇領主の執愛に溺れる~ローレライの夜想曲~   第90話 不器用でいびつな私たち

     義姉からまさかそんなことを言われるなんて思いもしなかった。  だが、どう返事したら良いか分からない。今更という部分もあるし、こちらだって理解が追いつかない。当然のように、イルゼは返信を書くことなんてできなかった。 しかし、この事態にイルゼは余計に形見の狭さを感じ始めていた。  先行きだって不安でしかない。  義兄と営んできた養鶏業も廃業だ。これから、いよいよ一人でどう生きていけば良いか考えると、焦燥が募るものだった。  もし、働くにしても領地を出て行くべきだろう。  この領地で義兄に監禁され、厭らしいことをされてきた殺人犯の娘という最悪な印象を持たれてしまうのはどことなく想像できたのだから……。 だが、これに対してヘルゲは「生きやすいに越したことはないでしょう」なんてやんわりと微笑んだ。「うちの旦那様もそうだしイルゼさんもね、〝不器用〟なんすよ。似た者同士だなって思います。たとえ本人は腑に落ちないとしても、周囲の評価だ待遇だの、そのまま受け入れたって悪くないと思いますよ?」 ──自分に厳しすぎなんすよ。  なんて、ザシャにも言われて、イルゼは目から鱗が落ちるようだった。  確かに、他人とそこまで関わってこなかったからこそ、分からなかったことだ。  厚意を受け入れること、甘えること。これまでの自分はなかったものだ。  この城に来て、人と触れ合い、学んだことは多すぎる。  それに、こんな風に言ってくれるのは心からありがたい。イルゼは、使用人たちに深く礼を言った。 そしてヘルゲは「今だからもう言えますが」……と、更なる暴露をイルゼにした。 何やらヘルゲはリンダと既に形式上で婚姻関係を結んでいるらしい。  娼婦の義姉を買う──つまりは、結婚していたということらしい。  だがその実態は……〝ヘルゲとザシャ双方の妻〟という扱いだそう。「法的に認められてませんが、兄弟共有の妻ということになりました。僕ら性格似てないですが、好みは似ていて。もう二夫一妻で良いのでは? ってことになりまして」 借金を肩代わりした他、買われた

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